不条理で絶望的な日常を生きていくための3冊の本
コロナ禍の先が見えない。外出を自粛し家に引きこもる日々。世界の経済システムがスローダウンしていく中での先行きの不安もつきまとう。
こんな時、なにぶん性格が暗いので、より悲惨な状況を本の中に見出そうとする。極限を生きた人たちが、絶望の果てに手にした純化された希望とその美しさに救われる。
「夜と霧」新版
言わずと知れた世界的ベストセラー。アウシュヴィッツを生き延びた心理学者による手記。
家族と引き離され、強制収容所に送られ、ちっぽけなパンと水のようなスープを与えられ、過酷な労働を課せられ、ムチで打たれ、周囲の人々がガス室に送られていく。
(暫定的な)ありようがいつ終わるか見通しのつかない人間は、目的をもって生きることができない。ふつうのありようの人間のように、未来を見据えて存在することができないのだ。そのため、内面生活はその構造からがらりと様変わりしてしまう。精神の崩壊現象が始まるのだ。
路面電車に乗る、うちに帰る、玄関の扉を開ける、電話が鳴る、受話器を取る、部屋の明かりのスイッチを入れるーーこんな、一見笑止なこまごまとしたことを、被収容者は追憶のなかで撫でさする。
そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。
わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」
最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。
感染症が蔓延し、日常に不便が生じているとはいえ、アウシュヴィッツのような極限状況とは比較することも愚かだとは思う。けれども、おおよそ地上で考えられる限り最も不条理で絶望的な状況になったとしても、精神の自由を持ち、世界の美しさを見届けることはできるのだと知る。
「墨汁一滴」
肺結核から脊椎カリエスを発症した正岡子規は、東京・根岸の自宅(現:子規庵)の寝たきりの生活となる。6畳間とその前の小さな庭だけが彼の世界となる。
「墨汁一滴」それに続く「病牀六尺」は、そのわずか六尺の世界での日々、思考や考察が描かれている。
人の希望は初め漠然として大きく漸く小さく確実になるならひなり。
ただ歩きたいという希望は病床にあって、立つだけでよい、座れるだけでも、と変化していく。希望はどんどん小さく、確たるものとなる。
希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃といひ耶蘇はこれを救ひとやいふらん。
小さな確たる希望に辿り着くことは、一見矛盾するけれども、大欲を手にすることに近いのかもしれないと思う。そして、その涅槃、あるいは救いにたどり着いた人間は、たとえ身体の自由を奪われていようと、美しい至高の高みに立つのだろうとも。
「失踪日記」
昨年逝去された漫画家の吾妻ひでおが自身の失踪体験を漫画にしたもの。
要はホームレス生活で、ゴミをあさり、日々の糧を集め、雑木林の中で寝る(凍死寸前になったらしい)。シケモクを拾って吸い、ゴミから漁ったカビだらけの肉まんのカビをとって食べる。
コミカルに描かれているので悲壮感は少ないのだが、読めば読むほど、屋根のある家に住む幸せをかみしめずにいられない。(この方の場合は、貧困でそうなったのではなく、自宅を持ちながら失踪しており、その理由は続編にあたる「失踪日記2 アル中病棟」に詳しい)
特に好きなのは、雑木林で寝て、朝起きると雪が積もり、いちめんの銀世界になっている場面。エサ場(ゴミ捨て場)にも行けないのだが、宗教画のような凄絶な美しさ。
人生はもともと不条理で、絶望に満ちている。そこに本が寄り添ってきた。自由に本を手にとって、読むことのできる幸せをかみしめる。