「企業変革のジレンマ」 組織は「機械」のように動くものなのか

「企業変革のジレンマ」 組織は「機械」のように動くものなのか

1987年、ロンドンのキングスクロス駅で火災が起きた。駅員たちの何人かは出火に気づき、彼らの責任を果たした。役割の範囲で。

結果として、炎は燃え広がり、31名が亡くなり、100名が負傷した。

なぜ、組織は事業を確立すると、構造的に無能化してしまうのだろうか。

本書では、この問いを立て、「構造的無能」がもたらすさまざまな弊害を分析する。

「このままではいけない」と誰もがうすうす気づいているが、痛みを伴う変化を受け入れるほどではない。みんなコツコツ真面目に仕事している。しかし状況は一向に改善せず、組織はゆるやかに衰退していく。失われた30年間、私たちは、こんな現象を見てきた。

その解として挙げられているのは「対話」。

「対話」というと、「みんなで仲良く話し合いましょう」というイメージがある(私だけ?)。でも、ここで語られる「対話」とは、そもそも関係性のあり方に踏み込んだもの。

「対話の哲学」によって知られる神学者のマルティン・ブーバーは、人間存在の根源的な関係性を、「我ーそれ」と「我ー汝」という2つの関係性に分類し、対話とは何かを示した。

 前者の「我ーそれ」の関係性において、相手とは私の目的を達成するための道具としての存在である。そこに相手の個別性は考慮されないし、私と同じように生きる世界が存在することも考慮されない。別の言い方をするならば、「それ」のために「我」は変化しない。「それ」は「我」の目的を達成するための手段に過ぎないからだ。

 一方、「我ー汝」の関係は、相手(汝)の言語(logos)を通し(dia)て、自分が立ち現れる対話(dialogue)である。この対話的関係においては、相手と関わることこそが目的であり、関わりを通じて私が新たに生み出されるという関係性が生まれる。私と相手は、分断された存在ではなく、地続きの存在としての関係である。

事業が確立されるに従い、分業が進み、業務は標準化されていく。そして人間は代替可能な存在となっていく。「Aさんの仕事はBさんにできない」ような属人的な仕組みのままでは、業務の標準化に支障があるから。

代替可能であるということは、「我ーそれ」ということなのかもしれない。「あなた」が何者で、どんなときに嬉しいと感じるのか、家族はいるのか、昨日いやなことがあったかどうか。そんな個別性が考慮されることはない。大切なのは、確立された手順を遂行できるかどうかということ。

以前、エール取締役の篠田真貴子さんがおっしゃっていた言葉を思い出した。

極端にいえば、人間も機械のように24時間働き、言った通りに動くことを暗黙の理想としてきた過去の蓄積が表れている気がします。人間の挙動に理解が及んでいないと言うのか・・・。

実際、私たちは、組織を機械だと思っているところはないだろうか。ボタンを押せば動くし、不調があれば修理に出す。

「相手とは私の目的を達成するための道具としての存在である」(「我ーそれ」)のだから、命令する。動け。止まれ。やる気を出せ。生産性を上げろ。笑え。感情を出すな。うまくいかなければ、「命令の仕方が悪かったのだろうか」「命令系統に問題があるのでは」と思う。それどころか道具(相手)のせいにする。

けれども実は、自分もまた組織を構成する一部である以上、「命令する私」と「道具としての相手」という単純な関係性に収斂されることはむずかしいのではないか。

もしも組織が「我ー汝」の関係性であるとするなら、必要なのは、命令方法や系統を改善することではなく、共に探究し、答えを出すこと。対話を通じて、ときに自分自身も変容していくこと。

「我ーそれ」の関係性は、おそらくトップダウンで物事を進めたり、明確な答えに向かって邁進する際には、とても役に立つ。けれども明確なゴールを見失い、先の見えない霧の中を歩きながら、「我ー汝」の関係性を模索する組織が増えているように感じる。