『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』

『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』

ロシアのウクライナ侵攻から半年が過ぎた。

ロシアとはどのような国か。書店には解説書コーナーができているが、確実なのは、やはり歴史に学ぶことだと思う。

1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、当時の日本領である満州に侵攻した。日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏する一週間前のことだった。

この半年前に開かれたヤルタ会談で、スターリンはこの半年前に開かれたルーズベルト米大統領、チャーチル英首相との間で、日本に参戦する見返りとして南樺太・千島列島を領土とする密約を交わしていたという。

当時、中国大陸・朝鮮半島に居留していた55万人の日本人は、ソビエト連邦内各地の収容所に連行され、捕虜として抑留された。このうち6万人近い人々が祖国の地を踏むことなく極寒の地で命を落とした。

この本は、シベリア収容所における実話を基にしている。

主人公である山本幡男氏は、戦前に東京外国大ロシア語を学び、満鉄調査部、ハルビン特務機関で働いていた。終戦後、武装解除され、ソ連軍の捕虜となって収容される。

シベリア抑留は過酷なものだった。

一日に黒パンが三五〇グラム、朝夕にカーシャと呼ばれる粥が飯盒に半杯ずつか野菜の切れはしが二、三片浮かんだ塩味のスープ、砂糖が小さじ一杯支給されるだけだ。

マイナス30度を下回る屋外での強制労働に耐えきれず、ダモイ(帰国)を夢見ながら、栄養失調や過労で死んでいく。

病に斃れた山本氏は、自らの死期を知り、日本で帰りを待つ家族に宛てて遺書を書く。しかし収容所内では、文字の書かれたものを所持することは許されない。もし手紙が見つかれば没収されてしまう。

そこでラーゲリの仲間たちは一計を案じる。手紙を手分けして暗記し、遺された家族に届けようと。

そして約束は果たされる。最後の手紙が届いたのは、終戦から11年後のことだった。

収容所生活の過酷、時に同胞を売る凄惨さに絶望しそうになるが、収容所の中で力を合わせ、手紙を誦じて、それぞれが遺族に届ける物語は、大きな救済のように感じられる。

そして収容所にあっても日本の詩句を誦し、シベリアの青い空にも美しさを見出していた山本氏の胆力と美意識に心打たれる。こうして異国の地で命を落とした日本人が多くいた。

収容時にも山本氏は何度か妻に宛てて手紙を書いている(ソ連軍によって校閲され、日本に届けられた)。この中で、山本氏はくれぐれも子どもに教育を受けさせるようにと妻に頼んでいる。実際、この奥様は女手ひとつで四人の子を大学まで出し、ご子息は教授になっている。

教育が民族の趨勢を決めるばかりでなく、逆境に希望を見出す力となることを、山本氏自身が知り抜いておられたのだろう。

『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』