コスパとタイパと資本主義
古代ローマでは、自分の子ども以外に富を生み出す財産を持たない階層をプロレタリーと呼び、プロレタリアート(賃金労働者)の語源となった。自分の子どもさえ持たない私は、プロ・プロレタリアートとかになるのだろうか。
どうでもいいことを考えながら、やかんで湯を沸かし、湯たんぽをこしらえた。燃料費高騰の折、いかに電気代を抑えるかに全精力を傾けているといっても過言ではない。同じ大根を買うなら、1円でも安く買う。買い物にかかる時間は1分でも少なくする。節約にはコスパの追求が欠かせない。最近では、タイパ(タイム・パフォーマンス)という言葉まで登場した。
思えば、仕事でもコスパ・タイパを意識し続けてきた気がする。ビジネスの成果は、利益÷(投下資本×時間)。コストや時間のムダを少しでも省いて、いかに利益を最大化するか。コピーは裏紙を使い、つけっぱなしの電気は消す。本業に価値をもたらさない業務はアウトソーシングする。
しかし公私にわたってコスパ・タイパを最大化してきたはずの私は、なぜいまブルジョワジー(富裕層)にならず、プロ・プロレタリアートのままなのだろうか。
彼我の違いを知るには観察が一番なので、たまたま仕事で知己を得たブルジョワな方々の言動をガン見し続けたところ、そもそも彼ら彼女らの口からコスパだのタイパだのという言葉が発せられたのを一度も聞いたことがないのだった。
それどころか、見返りがあるかどうかさえわからないものに惜しげもなくお金や時間をを使い、その場で回収しようとしない。
若者を引き上げたり、その場の全員に奢ってみたり。日常的に寄付したり、手弁当で社会貢献している人も多い。学校設立とか里親とか。ギブ精神のかたまりに見える。
金持ちほど長期で投資する
なぜブルジョワな方々は、見返りがあるかどうかもわからないものにお金や時間を使うのか(私調べ)。
まず考えられるのは時間軸の話で、短期的にはペイしなくとも、長期的なスパンで見れば、むしろコスパ・タイパがめちゃくちゃいい。こういうことは、実は世の中に溢れている。
「我々が好む株式保有期間は『永遠』」というウォーレン・バフェットのふざけた格言があるが、そもそも長期で見れば経済は右肩上がりの成長を続けてきたわけで、長期投資家が勝つに決まっている。株式投資に限らず、稚魚を獲らずに放流するとか、100年後の森をつくるために木を植える人なんかも、長期のコスパを選択しているといえるかもしれない。では、なぜ私たちは短期的な成果にこづき回され、時間に追われまくっているのか。
ファイナンスの授業で最初に習ったのは、時間価値という概念だった。「今日の1万円は、来年もらう1万円よりも価値が高い」。たしかに日本で超低金利の定期預金に預けても10数円の利息がつくし(安)、金利4%超のApple銀行に預ければ10400円になる(為替レート無視)。
事業をする以上、アップル銀行に寝かせておくよりも収益を上げろよなという理屈に従って、私たち従業員は一生懸命働いて利益を上げようとする。もし400円しか殖やせないなら、かかる時間を短縮しないと割に合わない。この上なくコスパ・タイパが求められる。
「アップル銀行に寝かせておくより収益を上げろよな」というのは金主だ。銀行から借りたら利息を返さなきゃならんし、ベンチャーキャピタルから出資を受けたら株価を上げなければならない。配当利回りを上げなければYah◯o!掲示板で糾弾される。
しかし極端な話、イーロン・マスクみたいに26兆円くらい持っていれば、短期でリターンを上げる必要はない。「300年後に地球を救う、かもしれません」という事業にだって大金を投じられる。そして常人には理解できないほど荒唐無稽なビジョンに、リスクをとって長期でお金を張れる人ほど、往々にして大きなリターンを手にする。その結果、ますます富が増え、いっそう荒唐無稽な事業に投資できるようになる。身もフタもない。
なぜイーロン・マスクは一代で巨万の富を築けたのか
では、どうしてイーロン・マスクは一代で巨万の富を築けたのか。PayPalの成功では飽き足らず、スペースXを創業し、テスラの経営に乗り出し、世界有数のビリオネアに上り詰めたのはなぜか。そう考えていたところ、一橋大学の楠木建先生が書かれたコラムを読み、心の底から納得した。
日本近代資本主義の父、渋沢栄一さんが書かれた『論語と算盤』という本があります。これを誤解している人がいます。――商売=資本主義=「算盤」は、ときとして暴走してしまう。だから人間の道徳=「論語」できちんとブレーキをかけなきゃ駄目だ。「論語」と「算盤」のバランスが大切だ。渋沢さんはすでにサステナビリティの時代を予見していた――こう言う人はおそらく『論語と算盤』を読んでいないと思います。
この本で渋沢さんが言っていることは「算盤だけのヤツは欲がない」。なぜなら、道徳的な商売が一番儲かるから。もし、経営者がガッツリ長期的に儲けようと思ったならば、必然的に「論語」が出てくる――これが渋沢さんの「論語と算盤」です。バランス論ではなく長期循環の論理が語られています。
二流経営者の条件―その4 条件4 短期バランスをとろうとする。
「算盤だけのヤツは欲がない」。シビれすぎる。
ここでいう「道徳的な商売」は、「儲けに走り過ぎてはいけませんよね」などといって利益の一部をCSRに充てるようなショボい話ではなく、もっと大きなスケールで事業をつくり、算盤勘定する話なのだろう。イーロン・マスクが2006年に書いたテスラモーターズのマスタープランを見ると、事業計画の壮大さに圧倒される。資本主義というのは本来、荒唐無稽なほどの欲を実現するための仕組みだったのではないか。イーロンの「人類の文明を存続するために火星移住!」みたいな。
さすがにイーロン・マスクは「論語」を読んでいないだろうが、ソクラテスでもプラトンでも、根っこは同じ話なのだと思う。私たちは、欲を戒めるために古典を読み、道徳を学ぶのではない。100年後の未来にまで影響をもたらさずにいられないほど強烈な欲を育て、世界観を養うためだ。
「あの海を渡り、新大陸を見つけたい」。金はないが圧倒的な欲と実行力だけを持った人間(変人)が出資者と利益を山分けする道具として株式会社の原型が生まれ、株券が流通する株式市場ができた。その道具に支配され、短期のコスパやタイパに追われるのは、まるで帳簿係を主人と錯覚するようなちぐはぐさを感じる。最近では「資本主義の限界」などというが、ただ手段と目的が混同され、「算盤だけのヤツ」が大挙して目先の利益に走っているだけのようにも見える。
膨張した欲の行き着く先はどこか
では、欲の行き着く先はどこなのだろう。ガッツリ長期的に儲けるために、欲の大きさが必要だとするなら、この2つはどこまで比例するのだろうか。
ビジネスの成果=利益÷(投下資本×時間)だとするなら、分母である投下資本と時間を限りなく大きくしていくことで、手に入るかもしれない利益は増え続ける。カジノでテーブルに賭け金が積まれていくように。でも「50000年後に1000000000000000000000(以下略)ドルが戻ってきます」と言われても、ちょっと投資しづらい。ていうか、しない。時間軸が長すぎて、想像の範疇を超える。人類が生存しているかどうかもわからない。
そう考えると、成果=利益÷(投下資本×時間)の方程式は、突き詰めた結果、どこかで破綻するものなんだろう。そう思っていたところ、割と身近に反証があることに最近気がついた。「1億円払うと来世に救われる」というビジネスモデルで、5000年くらい昔からある。
仏教では、56億7千万年後に弥勒が現れ、衆生を救うとされているそうで、そのために人々は徳を積み、よりよく生きることを願う。これほど不確かな投資はない。でも本当にほしいリターンは、来世に自分や大切な人がきっと救われると信じて現在を生きていく力だ。
ネット民の間では「最もコスパがいいのは子どもを持たないこと」「いや、生きていること自体、コスパ悪くね?」という自嘲気味の議論が見られるが、ものすごい真実だと思う。そもそも価値が定量化できない、ムダかもしれない何ものかに向かって私たちは今日も元気に生きている。コスパやタイパに一喜一憂しながら。
※本記事は「資本主義のアップデートについて考える Advent Calendar 2023」に参加しています。